家庭連合を退会して

霊的巡礼の旅に出ました

家庭連合を退会して

私達夫婦は2020年に家庭連合を退会しました。入教時は1800双で祝福を受け、人生の半分は海外で宣教活動をしていました。海外で生まれた子供が6人、貧乏でしたので自分の学費も自分で働いて工面し、今は全員独立した生活をしています。それしか彼らにとって生きる道が無かったという境遇なのに、よく頑張って生き抜いてきてくれたと感謝しています。上の子4人は親の願いに従い祝福を受けましたが、下の子2人は自分達が選んだ道を行きました。日本に帰ってからは、夫婦共々一番底辺の仕事をがむしゃらにして、海外3か所に散った子供達に、生活費の一部を送金する生活をしてきました。年老いた親の介護に5年同居し、やっと家族の重荷から解放されたと気づくと、私達自身が70才を超える年齢になりました。肉体的には一息つく状態に到達したのですが、心の平安に行きつけないことが悩みでした。この先老後をどうやって生活していくのかという心配と、下の子二人が自由奔放な生き方をしていましたので、それが悲しみの種でもありました。
そのような最中インターネットで検索していると、「心配や不安は霊的エネルギーの欠如から生まれる」ということばに出会いました。この宇宙には神の愛の顕れである、霊的エネルギーが充満しているというのですが、それを受け取れないような「不調和を自分自身でつくっている」というのです。これは一体どういう教えなのだろうと読んでいくと、霊界からのメッセージであるということがわかりました。スピリチュアリズム普及会というサイトに、100年前イギリスに顕われた、シルバーバーチという霊が語った内容が記載されていました。私達はそれから二年間、その普及会主催の読書会に月一度のスケジュールで参加してきました。初めの頃は50年も信仰してきた統一教会の信仰が反発を覚え、考えさせられることが何度もありました。ただ一つ言えることは、妻に言わせると私が前よりもずっと明るくなり、親切になり、付き合いやすくなったということでした。自分自身振り返ってみると、霊的な窓が少しずつ開けてきて、自分自身を元気づけるインスピレーションのようなものが感じられるようになりました。気が付くと不安や心配、怒りや悲しみといったネガティブな感情が全く消えていたということです。
スピリチュアリズムの教えは人間一人一人の霊的成長を目的とした、「自分で自分を救う」という生き方です。その根本にあるのが、人間の自由意志であり、神も一方的に押し付けることのできない道です。人間は幼い時は別として、大人になれば自分の生きたい道を選ぶようになり、それが仮に間違っていたとしても、自分が選んだ道を行かせて失敗し、反省してまた立ち上がるようになっています。長い目でみると、間違った体験も心の栄養になり、本当に正しいことの意味を深く理解できるようになります。子供達に無理やり親の考えを押し付けるのは、「愛の理念にそぐわない」と同時に、見守る寛容心をもつことの必要性を感じるようになりました。
スピリチュアリズムでは、霊界でも霊的成長していかなくてはならない道があることを教えています。宗教者はほとんど、地上では苦労しても霊界では天国に行くのだと信じています。ところが霊界からのメッセージによると、決してそのように単純にはなっていないことを伝えています。原因と結果の法則により、人は自分が行なった通りにしかならないというのです。本当に人の役にたつことをした人はそのように実り、人を利用し自分の利益を満たそうとした人はその支払いが待っています。宗教者だからといって、自動的に天国にいくということはないのです。霊界では成長した霊ほど、その特質は謙虚であり、どのような人に対しても分け隔てなく接する人格になります。地上での栄光や実績、権威や富も、霊界に行けば全てが消え去り、残るのは霊的成長に見合った人格性だけです。地上ではさまざまな成長レベルの人たちが、同じ場所に存在していますが、霊界では各自の霊的成長レベルに応じて、別々の世界に住むようになります。
統一教会では祝福という結婚儀式がキリスト教でいう贖罪になっています。人類始祖がサタンと関係し、原罪が生じ、メシアによる贖罪を受けるというという信仰です。スピリチュアリズムによる霊界からのメッセージで一番驚いたのは、「霊界にサタンはいません」という内容でした。もっとも悪霊と呼ばれる霊達は、霊界下層にたくさんいるようです。しかしその元締めとなるような存在はいないということです。悪霊はみなわがままなので、誰かに従うような性格ではないのです。信仰者がよく口にする、サタンの誘惑とかサタン的になったという表現は、実際のところ悪霊の影響を受けたという表現が正しいのでしょう。サタンがいないとなると、原罪も無くなり、メシアによる贖罪も価値がなくなります。私達の結婚には教祖による宗教的意味合いは、なにもないことを理解するようになりました。今までずっと一緒にやってこられたのは、誰かがそのようにしてくれたからではなく、お互いが利他的に生きようと努力した結果なのだと思います。
宗教は出生、結婚、葬式に関する儀式を取り仕切っていますが、家庭連合も結婚と葬式で必ず教会が係わるようになっています。私の母が95才で他界した後、私自身が喪主になって小さな家庭葬を行いました。人は死ぬときに霊界のほうから死者が迷わないように、先にいった親族や指導的立場にいる霊が出迎えにきてくれます。自分で葬式を取り仕切りながら、指導霊の光輝あふれる雰囲気に圧倒されたことを覚えています。つい数日前まで枯れ木のようにしぼんでいた母が、重い肉体の鎧から解放され、霊として旅立つ喜びを感じました。地上に未練を残す故人への感傷は、かえって死者を地上に留めることになります。地上への意識が強いと死の自覚ができず、スムースに霊界にいくことができません。盛大な葬儀は死者の地上への未練を増し、残された人たちへの負担も大きすぎます。簡素にスッと送り出してあげたほうがよいのです。
統一教会の信仰と訓練の生活を通過されてこられた皆様、きっと人生の深い経験を積まれてこられたことと思います。いずれ誰しも霊界に行く道が待っています。教祖と教義をただひたすらに信じてきた私達ですが、どうか一歩立ち止まり、霊界から伝えられてくるメッセージに耳を傾けてみていただけませんか。今まで気づかなかった霊界の事実、霊達が伝えたい人生の生き方に、はっと目を覚まされる思いをすることでしょう。


スピリチュアリズム普及会と検索されれば、誰でも無料で霊界からの情報を読むことができます。私達に質問や感想があれば、以下のメールアドレスにお寄せ下さい。
urugacbf@yahoo.co.jp